結婚したい女達の相談を受ける時

女性は子どもの頃から、自分が結婚に向くかどうかを強く意識して生きている。そこに「料理」の才能が多く関わっているのは、驚くほどだ。結婚は女性にとって「常識的な行動」の総体である。

結婚はできないが恋愛には自信があると言った女性は続けてこう語っている。「恋愛とは相手を不意打ちにして感動させるもの。結婚とは逆に突拍子もないことをしないこと。私は毎日を平穏に暮らすことに恐怖を覚えます。

私の中の何かが、そんな生活は私には送れないと言うからです」彼女は毎日料理をすることを恐怖しているのだが、同時に部屋も片づけられない。女性にとって、内面の非常識を隠して、行動を常識的なものにすることが「結婚」なら、自分は結婚できない、あるいは結婚しないという無意識の審判と選択は、世間で思われているよりもずっと早い時期に行われているような気がする。

30歳で既に完了しているかもしれない。恋愛の才能と結婚の才能とは一つのコインの裏表にある。結婚の才能とは、「片づける女を拾う行動」であり、恋愛の才能とは、「散らかすH落とす行動」である。次の瞬間何をするか分からない人を、男性であれ女性であれ会社は採用しない。

予測可能な行動、すなわち常識的な行動をとり、非常識なほどの思考量を持つ人が会社に選抜されていくと、経済的な理由と相侯って結婚には有利になる。そういう人たちは、社会を散らかさない。

人を最も常識的にさせるのはスポーツをさせることではなく、仕事を与えることと私有財産として土地を持たせることと結婚させることである。そういう結婚資源のある人たちの多くが、恋愛とはほぼ無関係に結婚してしまう。

なまじ恋愛の才能があると、家庭という重要なものを落としてしまいかねないので、周囲が最初から「安全な道」を辿らせるということもある。男の子に、代理満足として音楽を与えるとか。次の瞬間何をするか見通せてしまう安心な人は恋人としては使えない。

結婚と会社には生産の法則が関わっているから、恋愛には、それを打ち消すほど消費の法則が詰められていて、危険な香りを選んでしまうのが人間である。生産とは一言でいうと「食べること」なのであろう。

なぜ、女子が「料理」に肯定的であれ否定的であれ無意識裡に拘るのかと言えば、「食べること」は、結婚の内部では、女性が「作ること」と直結しているからである。作った料理はすぐに食べられ、消えてしまう。作品そのものは人聞が生きるために死ぬ。

摂食障害が今も圧倒的に女性の病であるのは、結婚の中で女性は家族に食べさせるために、毎日死ぬからである。消えてしまうものを作るからである。だが、空になった器は消えない。それは出しては仕舞わねばならないものである。

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